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Ariadne auf Naxos in Full Score (Dover Opera Scores)
D**9
Strauss Score a winner - Amazon as well...
I am really happy with my copy of the full orchestral score to Ariadne auf Naxos by Richard Strauss. I'm pleased to be able to purchase a gently used copy of the score, saving trees and landfills all at the same time of acquiring the score to one of my favorite operas.Thanks, Amazon!
K**O
Four Stars
As Expected
L**E
Five Stars
SUPERB
D**D
Good
Clear printing and good quality binding.
陸**平
「一幕物?…これは序幕さ!!」―黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』より
.モリエール『町人貴族』全五幕をホフマンスタールが二幕に圧縮・改編(邦訳があるようだが未読)、1912年の上演に際しシュトラウスが劇伴と劇中劇=本作の第二幕「オペラ Oper」を作曲・指揮したがあまり評判芳しからず、後に独立した別々の曲として発表。前者が組曲『町人貴族』、ホフマンスタールが新たに書き下ろした台本による第一幕「序幕 Vorspiel」を追加した後者が本作…と云うのが成立の大まかな経緯らしい。本作初演は1916年、組曲版は1920年。 この、本編に先立って物語の外での前口上や前段=プロローグを置くと云う劇構成、古代ギリシャの昔からの一つのパターンだが、現代では物語の状況説明のためと云う当初の機能を離れて、観客に客観的、むしろ冷淡・消極的な「引いた」視点を持たせる異化効果を旨とするのが専ら(司馬遼太郎の珍しい戯曲『花の館』*でさえこの手法が踏襲されている…まあ、「余談だが」など作者の目が随所に表れるあの小説作法と同工なわけなのだが)。確かに気が利いてハイカラな感じはするけれども、同じ構成を採る黒澤明脚本の『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(昭和27年)を演出した森一生によると「自分ではそんなにいいとは思わないんですよ、あれは」「最初、現代劇ではじまるでしょう。あれが駄目だと思うんですね」「あれが余分なものでしたね」「あの形式がはやったんです、当時。(中略)しゃれた脚本法ちゅうか」**と、まあ『~鍵屋の辻』に限った話ではあるけれどもミもフタもない。そう云えばその黒澤脚本&監督『蜘蛛巣城』(昭32年)でも本編前後に(人物は登場しないものの)現代の場面が置かれ、ご丁寧にギリシャ劇式のコーラスまで付く。市川崑初の時代劇『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』(昭28年)も同様の構成で、こちらは時代劇に現代感覚を持ち込むと云う演出意図は分かるがやっぱり機能不全、そこだけムダに感じたもの。 *『司馬遼太郎 全舞台』(中央公論新社)、『花の館・鬼灯』(中公文庫)などに所収。 **山根貞男、山田宏一編『森一生 映画旅』(草思社)より。 斯様に、モダンに見えて実はとっくの昔に手アカの付いているのがこの手法で、現代に於いてはよほどの必然性、オペラでは『ルル』はその生々しい陰惨さでヒロインへの共感が遠のかないように、『金鶏』は検閲に配慮して「ただのお伽噺ですから」と言い訳するため…等々がなければ、森監督のように「またか」とウンザリされそう。形式・構成は「あればいい」と云う単なるイレモノではなく作品の本質の一端を成すもの。料理を盛る皿、花を活ける花瓶、小説なら一人称か三人称か、「です・ます」か「だ・である」かだけでも出来が大きく左右される。特に時間芸術である音楽・演劇・映画等々にあっては、懐石や西洋式ディナーに於ける料理の順番、冠婚葬祭に於ける式次第と同じで、それなしでは出来不出来どころか存在すら不能。僅か数小節のごくシンプルなメロディにさえ形式と構成があるのは、音符の順序を入れ替えたら・最後から逆に弾いたら・まとめて同時に鳴らしたらどうなるかを想像すれば自明だろう。映像に於けるフィルムのコマも同断。プロローグがなぜ必要か・なくてはならないのかの理由が曖昧、単に「何となくシャレてるから」「最近ハヤッってるから」程度のことに過ぎず、別になくてもいいのならナシにした方がいいに決まっているし、事実、ない方がよかったのでは・よかったはずと思えるものは少なくない、と云うか殆どがそう。『ルル』『金鶏』にしてもウマく行ったと云い切れるかどうか微妙なところだし、『蜘蛛巣城』その他の邦画はやはり黒澤や市川のハイカラ趣味が出ただけのムダ=失敗の部類なのではないか。 本作についても、注文主の無理難題に悩まされる作曲家が主人公の「序幕」(全90頁)と、結果完成した珍なる一品「オペラ」(全211頁)の二部構成が巧く機能しているかと云えば、正直云って疑問が残る。その理由は明らかにバランスの問題。二つの幕それぞれが質・量ともに重過ぎるのであって、狙った以上に悪い意味で水と油。本来の趣旨である「異化」そのものがゲシュタルト崩壊を来たしている観がある。序幕をより短く、10分かそこらのごく軽いエピソードに抑えるか、逆に第二幕を軽くした上で序幕と同じほどの重さの第三幕=再現部を追加、A-B-Aの三部形式で安定させるか、あるいはより手っ取り早く序幕を音楽抜きの台詞劇にするか―本当はホフマンスタールもそのつもりだったのでは―しなければ、舞台版『町人貴族』初演でのテツを再び…ところが蓋を開けてみたら意外な(?)成功と相成ったらしいのは、ひとえにシュトラウスの音楽の力あってこそ。交響詩の数々や『家庭交響曲』『アルプス交響曲』の面白さがその筋立てによるものではないのと同じで、決してドラマそのもののおかげではあるまい。最初の失敗も要するにシュトラウスが原作をほったらかしにして音楽に力を入れ過ぎ、ちょっとした幕間狂言のはずが極端に長たらしくなって、モリエール/ホフマンスタールの台詞劇を観に来たつもりの客をウンザリさせてしまったせい。おそらくシュトラウスにとって台本(即ち構成・形式)とは、次から次へと溢れる音楽を要領よく・見栄えよく並べるための受け皿に過ぎないとの認識だったのではないか。スキ・キライは別として出来には文句の付けようがない『サロメ』や『エレクトラ』が最初に原作ありきだったのに対し、それ以後の作は専ら台本作者と相談しつつの共同作業に依ったのも、まさに『カプリッチョ』の如くまずは自分の音楽で台本は二の次、単なるイレモノとの意識があったことを偲ばせる。どの作を聴いてもモーツァルト以来のオペラ群―名作・傑作未満のものも含めて―に見るドラマの焦点・テーマが今一つ明確でなく、ヘンデルあたりのバロック・オペラに似た散漫でワン・パターンな印象を受けがちなのもそんなところから。 作曲家自身、それにC.クラウスやベーム、サヴァリッシュなどシュトラウス派(?)の指揮者たち***がひときわ偏愛した作がこの『アリアドネ』ではあるらしい―吉田秀和も最初の訪欧で舞台に接して「こんなに才気煥発で豊かなオペラがあったのか」と絶賛している****―のだけれど、作者の自画自賛や異邦人・吉田の第一印象はともかく、独墺圏のある世代に於けるシュトラウス人気には「昭和は輝いていた」と似た一種の懐古趣味&身内ビイキと紙一重のところがなきにしもあらずなので、彼らの評価を鵜呑みにするのがまた要注意。同世代のブルックナー派やマーラー派とは露骨なほどに住み分けが、それも明らかに共通の出身地域・宗派・階層・民族グループと関わる形で出来ていたりするのも、我が国の昭和を懐かしがる向きと否定的な向き、薩長ギライや江戸贔屓、中部・関西のアンチ東京の如く地方ナショナリズムの気配がそこはかとなく感じられる。すっかり世代交代が成って国際化も進んだ現代、ますます盛んなブルックナー&マーラー人気に比べ、シュトラウスのそれに微妙な陰りが見られなくもないのも、そのへんに理由がありそう。 ***ともにシュトラウスと縁の深かったクラウスとベームだが、確かめてみたら年齢が一歳しか違わないのにちょっと驚く。てっきりクラウスの方が一回り以上は年上かと思っていた。ベームも長生きしたもの(1894~1981)だけれど、クラウスの没年=‘54年当時のベームの録音を幾つか聴くと、既に練達ではあってもステレオ期の円熟には未だしの感があり、比べちゃ気の毒だし個性の違いもあって当たり前、録音だけで決め付けるのも悪いのだが、やっぱりクラウスの天才を思ったりする。未聴ながら、クラウスにも『アリアドネ』の録音があり、戦前のラジオ放送からのものらしいのだが、カタログに見る所要時間や配役、「GESAMTAUFNAHME DER “OPER”」なる表記などからして、これがどうやら序幕抜きの第二幕のみ。まあ放送時間の制約故のことではあるのだろうけれど、ひょっとしたらクラウスにも評者と似た違和感があって「時間が足りない?じゃ序幕はナシで」とアッサリ飛ばしたりしたのかも、と。 ****『音楽紀行』(中公文庫、他)など まあ、こう云うインテリ好みかつ享楽的なオペラも時代の所産と云うか、ワーグナー以来の前衛疲れと第一次大戦からの現実逃避、その退嬰ムードが招いた古典回帰。どこか虚ろで血が通わないのは20世紀末は我が国バブル期のポストモダン・ブームを思わせる…と云うか、アレそのもの。「知性」「才気」「洗練」「洒脱」等々で褒められたい余りにバカになり切れない作者たちのスノビズム―これまたあのナツカシの「ポストモダン」当時に跋扈した物書きの誰カレを思い出す―には、その風刺・皮肉を可笑しいと思わないのは教養がない証拠と叱られそうな雰囲気がある。大正教養主義の申し子のような吉田の好みに適ったのもそのあたりなのだろうけれど、何だかんだ云ってやっぱりオペラは歌と音楽を楽しむもの、知性ではなく感情に訴え、感動ではなく感興や情趣、興奮を誘うのが本来の機能と、そこはシュトラウス同様に考える評者としては、似たようなギリシャものだが本作とは逆にカシコぶった余計なヒネリがなく、アタマを使わずに楽しめる分『ダフネ』の方がまとまりがよくて―「オペラ」としてスジが通っていて―上出来だと思うし、好み。吉田は吉田で、同じ訪欧中に聴いたこちらには辛い点を与えているのだが。ちなみに、やはりシュトラウスのギリシャ・オペラ『エジプトのヘレナ』『ダナエの愛』は評者未聴。
ترست بايلوت
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